滝沢馬琴の『玄同放言』(文政三年 一八二○)という考証随筆には、推古、奈良、平安時代の変った人名として、
押坂《おしさかの》 史《ふひと》毛屎《けくそ》、倉臣小屎《くらのおみおぐそ》、阿部《あべの》朝臣《あそみ》男屎《おぐそ》、卜部乙屎麻呂《うらべのおとくそまろ》、巨勢《こせの》朝臣《あそみ》屎子《くそこ》等々の名を挙げている。
もっともこの時代の人名にはずいぶん珍妙なのがある。巨勢《こせの》 造 《みやつこ》猿《さる》、安曇宿祢日女虫《あべのすくねひめむし》、卜部尻《うらべのしり》、阿部《あべの》朝臣《あそみ》毛人《けひと》、その他、鯨《おおいお》、忍足《おしたり》、糠手《ぬかで》、赤猪《あかい》、犬売《いぬめ》、探せばまだまだある。ことにおかしいのは麻羅宿祢《まらのすくね》だ。この人は允恭《いんぎよう》帝二年(四一三)服部連《はとりのむらじ》として織部司《おりべのつかさ》になった。
さて糞の人名のつづきだが、大宝二年(七〇二)の戸籍に記された豊前国仲津郡(大分県中津市)に住む牛麻呂の孫(六歳)になんとズバリ屎の一字の名がある。
また、「平安遺文」という平安朝の文書の寛弘元年(一〇〇四)の讃岐国(香川県)入野《にゆうの》の里の戸籍には町屎女《まちくそめ》という女性の名まで見える。
現代でも虎雄とか、鮎子とか、わずかに見うけるが、上古には禽獣魚虫を名とした人が多かった。たとえば、
舎人糠虫《とねりのぬかむし》、井上蜂麻呂《いのうえのはちまろ》、葦田蟻臣《あしだのありおみ》、犬養子羊《いぬかいのこひつじ》、物部毛虫《もののべのけむしくい》、土師菟《はじのうさぎ》、佐伯伊多知《さえきのいたち》、安倍堅魚《あべのかつお》、堺部魚《さかいべのこのしろ》、紀麻呂《きのさばまろ》、吉士赤鳩《きしのあかはと》、膳 《かしわでの》斑鳩《いかるが》、中臣宮地烏麻呂《なかとみみやじからすまろ》。
これは『日本の人名』(渡辺三男)からその一部をひろったものだが、同書には、豊臣秀吉が晩年、五十三歳になってはじめて児を得たうれしさに、わが子の長寿を祈って鶴松と名付けながら、呼び名を「棄丸」とし、棄丸は秀吉の願いをよそに三歳で夭折《ようせつ》したが、その後、秀吉が五十七歳の文禄二年(一五九三)ふたたび淀君が秀頼を出産するや、棄丸同様、一旦捨てた形をとり、これを松浦讃岐守に拾わせて、「おひろい」と呼び名をつけ、わが子が逆境をはね返して逞しく生育するよう祈った――とある。
現代でも、「捨吉」などという名は、そうした親の慈悲によって名付けられたものだろう。屎もまた、美しくすこやかに育ってほしいわが子へ邪神がとりつくのを避けるためにつけられた呪術的な意味がある名前なのか。屎を自分の分身として豊穰をもたらす屎の呪力にあやかったものか。
15 年前 0 回復
15 年前 0 回復
15 年前 0 回復
15 年前 0 回復
15 年前 0 回復
15 年前 0 回復
15 年前 0 回復
15 年前 0 回復
15 年前 0 回復
15 年前 0 回復
15 年前 0 回復
15 年前 0 回復
15 年前 0 回復
15 年前 0 回復
15 年前 0 回復
15 年前 0 回復
15 年前 0 回復
15 年前 0 回復
15 年前 0 回復
15 年前 0 回復